咸平郷校

全羅南道有形文化財 第113号

咸平郷校

咸平郷校
文化財指定日:1985.02.25.

咸平郷校は咸平邑から東に約1.5kmの大洞面郷校里にあります。咸平郷校が現在の場所に移築されたのは1631年で、それ以前には現在の咸平邑内橋里外大化にありました。咸平郷校も他の郷校(昔、地方の孔子廟に付属していた官立学校)と同じく朝鮮時代初期に建てられたように見えますが、建てられた経緯や内容ははっきりとしていません。ただ内橋里外大化村の東側の山に郷校の残骸に見える主礎石や瓦の破片が残っており、その名残だけを見ることができます。

その場所にあった郷校は、丁酉再乱(慶長の役)中だった1597年9月に倭軍によって消失しました。当時の状況は、咸平の儒学者であり義兵としても活躍した盧憬徳の行状記に比較的詳しく記されています。この行状記には『倭軍の手によって内橋里外大化の近くにあった咸平の郷校で使われていた下僕たちが皆逃走してしまうと、自費で祭祀を執り行い自身の家の下僕たちを郷校で働かせるようにした』とあり、当時の郷校の消失経緯について詳しく書かれています。

その後、命脈だけをつないだ咸平郷校は、1627年当時に咸平県監だった朴炡清が『十井之地』と言って現在の場所に敷地を得て改築しようとしましたが、丁卯胡乱で中断されたまま放置状態に置かれてしまいました。その後、1631年に咸平の儒学者22人の発議で大成殿を竣工し、再び明倫堂を竣工して郷校の規模を完全なものにしました。

この後、咸平郷校は1643年、近隣の長城で儒学者のキム・ヒョンボク、ヒョンウ兄弟が起こした儒案が焼ける事件に関連し、郷校移築時の中心人物だったチョン・ジヒョンと手紙をやり取りしていたことが全羅道一帯に大きな波紋を投げかけました。1662年には李滉(李氏朝鮮の儒学者)の位牌が流出し物議を醸すなど微妙な事件の中に入り込んだりもしました。1816年には火災が発生し大成殿の一部と明倫堂が消失、また改修するなど様々な事件を経て現在に至っています。

全羅南道 咸平郡 大洞面 大洞ギル 45